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読書は栄養素である。

  • 著者:林 真司
  • 投稿日:2018年12月24日
  • 更新日:2020年2月5日

 畑の苺ちゃんたちも収穫を間近に控え、ハウスから出るのを楽しみにしているかのように、顔に赤い化粧をし、心踊らせているかのように見える。収穫開始はすぐ目の前かな。今年は台風やぐずついた日が多く、定植が遅れ、どうなることかと思ったが、なんとか無事に実をつけてくれ、例年通りきちんと収穫ができそうで一安心である。収穫の喜びは一入である。

 

 突然だが、20代も後半になり、世間は自分を完全な大人として見てくることを自覚し始めたことに対する寂しさからか、昔を懐かしむ、というか昔の出来事の場面や読んだ本のことをふと思い出すことがよくある。

 

 出来事は人それぞれ特別で、その人にとっては取り替えのきかないほど意味のあるものなので、自分がここで、自分の過去の出来事に対する思いを語ることに対してはあまり意味をなさないと思うので、印象に残っている本を少し紹介できればと思う。過去の出来事を面白く語ることはよいと思うが、単純に懐かしむ気持ちを語ることには意味が薄いと言った方がよいだろうか。

 

 学生時代ニーチェの本を読み、少なからず影響を受けたと思っている。ニーチェといえば『ツァラトゥストラ』や『善悪の彼岸』が定番だが、私としては『この人を見よ』がもっとも読みやすく、現実味のある言葉として受け取ることができた。ちなみに、『この人を見よ』の”この人”とはニーチェ自身を意味しているようだ。

 

 少しこの本から引用する。()内はわかりやすいように私なりに言葉をつける。

 

 ”万人は愛他的(博愛的)であるべしなどと要求することは、どだい生存(存在)からその偉大な性格を奪い取ってしまうことにほかならない。人類を去勢して、憐れむべき支那の宦官の状態に引き下げることにほかならない。しかもこれこそ今まで試みられて来たことなのである。これこそ道徳と呼ばれて来たものなのである。(中略)。善人というのは自分の生存(存在)を全うするためとあれば、心理を犠牲にするだけでなく、未来をも犠牲にする人たちなので、ツァラトストラはとりわけ彼らを最も害のある種類の人間と感じている。”

 

 確かに学校などの道徳教育では、利他主義であることは絶対的に良いことだ、と教える風潮にあると思うが、あまり良くないと思う。例えば、ボランティア。被災地に行って、被災者の生活を支えるというボランティアが流行りだ。ボランティアに行くこと自体はだめだとは言わない。だが、ボランティア=良いことと短絡的に考えることには疑問を持たないといけない。考えればわかるが、ボランティアができることは限られているし、何より、継続できない。支援をビジネスとして立ち上げて、収益をあげながら継続して活動していく方がよっぽと被災地のためになっているのに、人々は、金のためにやっているからあの人たちは汚い、というようなことをいう。どっちの方が被災地のためになっているかは歴然としていても。あと、小学校の運動会でのみんな揃ってゴール、などというのはみんな競うことなく協調性を発揮しながら、仲良くすることはよいこと、という考え方が根底にあるのかもしれないが、はっきりいって協調性なんかいらない。協調ばかりしていたら、自分の存在価値がなくなる。居ても居なくても同じだから。はっきりいって友達もいらない。友達なんて自分のステージが変われば変わっていくし、大人になれば、利害関係がないとなかなか続きにくいものでもある。別にこの人は友達、あの人は友達じゃないなんか区別しなくても、必要、不必要で判断する、といった感じで付き合っていくのが自然な形なんじゃないだろうか。お互い必要だったら会う頻度も多くなるし自然と距離も近くなるでしょう。

 

 あと、しょうもない例だと、ゴミが落ちているのに気づいたら拾いなさい、だけど気づかなかったらしょうがない。というもの。普通にこれは逆だ。気づかないほうが、周りに注意を払っていない、ぼーっとしている証拠なので、気づいて拾っていないやつよりまずい。信号に関しても、車が来てない、普通に安全に渡れる状態なのに、青になるまで突っ立っているやつがいるが、普通に無視すべきだ。もし仮に自分が大便を我慢していて、信号を赤で渡ってセーフか、渡らずに青まで待ってアウトか、だったら確実に青まで待ってアウトの方が状況は悪いし、下手をすれば周囲の人に悪影響を及ぼす可能性だってある。赤信号を渡ることは悪い、と教えるのはやめた方がいい。

 

 上記の例は一部に過ぎないが、ニーチェは個人的には良い意味で道徳に反する内容を書いてくれているので、先生の言うことに対して反論する子供に育てたければ、この本を薦めればいい。

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イチゴ農家の次男として生まれる。
明治大学卒業後、地元の地銀に入行するも、会社のカルチャーが全く肌に合わず1年で退社。退社後すぐにフィリピン留学でフィリピンのアンヘレス地方、セブ島で計約半年過ごす。
その後オーストラリアでワーキングホリデーを約半年行い、他国の桁違いの農業を初めて知る。ワーキングホリデー中にセブ島の語学学校でマネージャーをする話が決まり再度渡比。
語学学校では入社後半年足らずで急に経営者が変わることになり、またもカルチャーが合わなくなり1年半で退社。
セブ島で転職活動をし、比系大手IT会社に入社。当時付き合っていたフィリピン人の彼女(現妻)の妊娠出産がきっかけで1年で退社し、いつかは必ずやろうと思っていた農業をすることを決意し帰国。