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夢がついえた瞬間

  • 著者:林 真司
  • 投稿日:2019年1月10日
  • 更新日:2020年2月5日

 先日のブログで、学校の教育を忠実に受けすぎて、ある意味で優等生になったがために、与えられたことをこなすのには優秀だが、それ以外のことは全くできなくなっていたと書いた。基本的には、高校までは学校から与えられたことをやっていれば良いのだが、大学からはそうはいかない。僕は大学に入学してから、少し今までの自分の人生に疑問を持ち始めることになった。

 

 まず、周囲の学生と比べて明らかに自分が劣っていると思ったのが、プレゼンテーション能力。高校では野球部の主将をしていたものの、人前で自分の考えを述べる機会というのはあまりなく、全くプレゼンテーションの能力が足りていなかったと思う。そもそもプレゼンテーションは学校の暗記を中心としたものとは全く違うもの。自分でクリエイティビティを発揮し、答えのない中、何をどのように伝えるかというのを考えなければならない。決まった答えを探す癖がおそらくついていたのだと思うが、答えのないものに対してどのように対応していいか見当もつかない。大学の授業中、人前で自分の考えを述べるときに、不慣れということから、極度の緊張であがってしまう、そもそも基本的な物事を考える力がないから、何を伝えて良いのかわからない。結果、何を喋っているのか自分でもわからなくて大恥をかくという状況にしばしば陥っていた。

 

 さらに恥ずかしいことに、このような状態で、私の将来の夢はアナウンサーだったのだ。まず、夢といっている時点で、自分の心にブレーキをしているようなものなので叶うわけはなかったのだが、本気で目指していた。憧れを抱いた人よりも上のレベルにいけないのと同じ理論で、「自分にはああいう風になれるわけがない」と自然に心のどこかで暗示をかけているのだ。もう思った時点で、負けているのだ。応募する前から負けているのだ。ただ、その時は本気で目指していたし、何かしらアクションは起こさなければと思っていたので、大学2年の時には某キー局のアナウンサースクールに通った。あの経験は今から振り返っても思うのだが、最高に恥を書いた日々だったと思う。どこの馬の骨だかわからない、関西の田舎の、言葉が異常に汚い地域出身の若造が、美男美女集まりのアナウンサーの卵たちと混ざって講義をうけ、それぞれ、発声練習やフリートークなどの練習を行うのだ。明らかに一人だけイントネーションが違ったし、フリートークなんて毎回小便をちびりそうなくらい緊張したし、結果一人だけあがりまくりで、当然うまく話せるわけもなく、現役アナウンサー講師の評価は最低。大学3年のアナウンサー試験間近の最終授業の際にその講師に言われた一言を忘れもしない。ちなみに、毎回講師は違ったのだが、担任みたいな人がいて、その人が一人一人にコメントを伝えていったのだ。今でも忘れもしないその言葉と情景。

 

 「林くんはアナウンサーというよりも制作みたいな裏方に回ったほうがいいんじゃないかな」

 

 アナウンサーになるために上京し、その時点でおよそ3年もの時間を費やしていたが、その一言はその全てを奪い去った。キー局4社のうち3社はエントリーさえしなかったし、残りの1社はエントリーしたが、面接をドタキャンした。ドタキャンなんてプライベートでもしないのにだ。あの日は、不思議なことに体に力が入らなくて、東京の自室で横になって倒れていた。その時にその局の事務担当の人から電話があったのだが、そのときの状況も色濃く記憶に残っている。アナウンサーという夢が完全に潰えた瞬間だ。

 

 まあこんな経験もたぶん20代前半くらいまでしかできないものなので、とても貴重なものだと思っている。20代も後半になると、色々と敏感じゃなくなってくるので、人の目もあまり気にしないし、緊張の度合いも小さい。別に失敗しても何も起きないというのをわかってしまっているので。死ぬわけじゃないし。

 

 まだまだあるが、夜も更けてきたので今日はこれくらいにしておきたいと思う。

 

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プロフィール
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イチゴ農家の次男として生まれる。
明治大学卒業後、地元の地銀に入行するも、会社のカルチャーが全く肌に合わず1年で退社。退社後すぐにフィリピン留学でフィリピンのアンヘレス地方、セブ島で計約半年過ごす。
その後オーストラリアでワーキングホリデーを約半年行い、他国の桁違いの農業を初めて知る。ワーキングホリデー中にセブ島の語学学校でマネージャーをする話が決まり再度渡比。
語学学校では入社後半年足らずで急に経営者が変わることになり、またもカルチャーが合わなくなり1年半で退社。
セブ島で転職活動をし、比系大手IT会社に入社。当時付き合っていたフィリピン人の彼女(現妻)の妊娠出産がきっかけで1年で退社し、いつかは必ずやろうと思っていた農業をすることを決意し帰国。